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■ 鹿部権現遺跡
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馬渡・束ヶ浦遺跡

 発掘調査は、第1期が1996(平成8)年9月17日〜1998(平成10)年1月23日、第2期2001(平成13)年
6月26日〜2002(平成14)年8月29日と2回に分けて行われ、出土した甕棺4基のうち1基からは青銅製武器4本、
1基からは装身具類等が確認され、また弥生時代中期以降の土壙墓・木棺墓・組合せ式木棺墓などが発掘されている。
土壙墓は二段掘りで、深く掘り込まれていた。さらに足の部分に小穴を掘りこんでいる。また木棺墓は、木の蓋は
腐敗してないが、土壙と木蓋の部分を粘土で目張りされていたのが、粘土だけがくっきりと残っていたのが
掘り出されていた。
 丘陵頂部付近には弥生時代前期の巨大な貯蔵穴も発掘されていた。深さ2、50m・底部からは砥石、前期の壷片が
発掘されている。
 縄文時代と考えられる陥し穴も3基ほど、底面中央に穴があり、中央に鋭くとがった木を立て、落ち込んだ動物が
突き刺さるようにしたものであろう。サンコスモ古賀(極田、杉ノ木遺跡)の調査の時にも、7基の陥し穴が出土している。
 それにまだはっきり分からないが、道のような遺構が出ている。広いところでは幅約1m、小石、こぶし大の石を
敷いてあるし、須恵器の破片も混じっている。中世あたりの祭祀用の道の感じもするが・・・・・・・
 馬渡・束ヶ浦丘陵は縄文時代には陥し穴がつくられ、近くに縄文集落があった可能性が高い。さらに弥生期には、
青柳川をはさんで水田地帯が広がり、それを背景にして強大な首長があらわれ、青銅製武器を所有していた
時期があった。やがて有力者は鹿部山付近から海岸近くに移り、この地域は小集団が稲作を営み、丘陵地も
墓地などになっていた可能性がある。 

 馬渡束ヶ浦遺跡発掘現場写真

 

貯蔵穴の写真
馬渡束ヶ浦遺跡発掘現場
貯蔵穴
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発掘調査報告

遺跡は、古賀市の南部、青柳町字束ヶ浦、鹿場、道田地区に及び、丘陵上、谷部に展開する広域なものです。
 調査は、グリーンパークの第2期工事に伴って平成13年7月1日から実施しています。調査対象面積は、
約4,500uです。
 本遺跡でこれまでに確認された遺構、遺物のうち主なものとしては、次のようなものがあります。
(1)縄文時代のおとし穴
(2)弥生時代の貯蔵穴、竪穴式住居跡、甕棺墓、大溝。青銅器(銅剣、銅矛、銅戈、小型鏡、青銅製鋤先)
(3)古墳時代の古墳群、竪穴式住居跡
(4)古代の石敷き溝 
この内、本遺跡の主体をなすのは弥生時代です。

 甕棺墓は、遺跡内でこれまでに大形の甕棺5基、小形の甕棺2基が確認されています。大形の甕棺の内4基は、
汲田式(弥生時代中期前半頃)の範疇に入り、残る1基が、金海式(弥生時代中期初頭頃)で、周辺地域では
初めての確認となります。
 2号甕棺からは、銅剣2、銅矛1、銅戈1の青銅製武器が4点出土しました。甕の大きさは、80cmを超えるものです。
銅剣は、全長32.8cmのものと全長31.1cmのものの2点。銅戈は全長25.1cm。銅戈は全長19.3cm
 3号甕館からは、銅釧が5点、管玉30点、勾玉1点が出土しました。甕の大きさは80cmを超えるものです。
銅釧は、総じて円形で外径6.5cm前後です。管玉は、長さ0.5〜1.5cmのものがあります。
馬渡・束ヶ浦丘陵(全景)写真 石敷き溝の写真
馬渡・束ヶ浦丘陵(全景) 溝状  小石がしかれている。
上に3基、この1基から銅釧(どうくしろ)と玉類が出土
青銅器発掘現場写真 炎天下の中の発掘現場写真
左3人がいるところ1基より4本の青銅器
(銅剣2、銅矛、銅戈)が発掘された。
炎天下  今日も発掘が続く
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永浦古墳群

Q 発掘調査はいつおこなわれたのですか?
A 平成9年12月から10年8月の9ヶ月間、古賀市教育委員会が調査をしました。

Q 永浦古墳群はどこにあるんですか?
A 古賀市の北西部鹿部永浦にあります。 3号線の古賀と新宮の境です。

Q どんな古墳群ですか?
A 古墳は四基ありました。1号墳は墳丘は削られ一部しか残っていませんでした。
  2号3号は10メートルの小さな古墳でした。4号墳が一番大きく25メートルの円墳でした。


Q 4号墳は盗掘を受けてない古墳だったそうですが、どんなものが出てきましたか?
 A 4号墳は死者を葬るところは石棺でした。石蓋を除くと中に人骨、甲冑、武器(刀・剣・鏃)や
  工具(斧・鉋)などがありました。


Q 4号墳はいつ頃のものでしょうか?
A 5世紀はじめから中ごろといわれます。
  いまから1600年ぐらい前でしょうか。


Q 5世紀はじめのころといえばどんな時代でしょうか?
A 4世紀中ごろには大和を中心に統一します。5世紀ごろには大陸や朝鮮半島から新しい文化や渡来人も
  どんどんやってきます。また、一方では朝鮮半島にも進出します。

 
 発掘後、九州歴史資料館で保存修復作業が行われ、現在展示室で公開しております。
永浦古墳群全景写真

永浦古墳群全景(東側より)
永浦古墳群が造営された4世紀後半から5世紀前半の時代は日本を含む東アジアでは時代の変動期に
位置しています。
この様な時代背景のもと、玄界灘を一望できる鹿部の首長は、古墳群内での4号墳で墳丘規模・豊富な武器・武具、
小壷等の副葬品を残すことで、首長の面影や盛衰を語り掛けてきます。
石棺内写真

石棺内写真
石棺内遺物配置実側図

石棺内遺物配置実側図(S=1/20)
 永浦古墳群は、4世紀末から5世紀前半に築造され、現状で4基の古墳から構成されています。
 1号墳は、国道3号線により墳丘を削平され、わずかに墳裾が残すのみで、詳細は不明。
 2号墳・3号墳は、墳径10m未満の低墳丘墳(ていふんきゅうふん)で、主体部(死者を埋葬する施設)は
木棺墓(もっかんぼ)・土坑墓(どこうぼ)を採用しています。副葬品は、2号墳に鉄刀・刀子・鉄鏃が一点ずつ、
3号墳に臼玉が副葬されていました。
 4号墳は、墳径25m前後の円墳で、主体部は竪穴式(墳丘の上から穴を掘り、穴の中に埋葬施設を作る構造)で、
埋葬施設に石棺墓(せっかんぼ)を採用しています。石棺墓には、被葬者の人骨と共に多くの副葬品があり、
被葬者に合わせて意図的に埋葬していました。
副葬品は、被葬者に合わせ両腕部に鉄刀(てっとう)2振りずつ、右脚部に鉄刀2振り、腰に短刀1振り、
両手付近に金環(きんかん)1対、右手付近に小型丸底壷(こがたまるぞこつぼ)1点、脚部から足元に鉄鏃(てつぞく)
多数、足元に甲冑(かっちゅう)1りょう領、眉庇付冑(まびさしつきかぶと)・頚甲(あかべ)・三角板鋲留短甲
(さんかくいたびょうどめたんこう)・ 肩甲、工具鉋(かんな)・刀子(とうす)等多数、甲冑に合わせて鉄剣3振り
鉄刀2振り石棺足側両隅に鉄斧1点ずつを副葬していました。
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発掘調査報告

 2000年3月に四冊(23,24,25,26)の文化財調査報告書が刊行されました。そのうち23集の川原西地区遺跡群
第1地点(古賀市川原1541-5)は、古賀市では珍しい縄文時代の遺跡で、住居跡や4000点にのぼる土器や石器が
発見されました。時代は縄文時代後期、約3000年前です。報告書では土器37点、石器14点が報告されています。
報告書は資料館で閲覧できます。
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鹿部権現遺跡

 永浦古墳の北側300メートルほどに権現遺跡がある。1999年10月より調査が始まり、2000年12月中旬調査が
終了した。弥生後期の包含層や竪穴住居や貯蔵穴深さ6メートルほどの井戸等が発掘された。
 井戸は幅約1メートルで、赤土層から青っぽい粘土層を掘り下げている。途中、井戸を廃棄した際に祭祀をしたものか、
弥生後期の口縁部を欠いた壷が出土している。また遺跡からは、多数の石錘(せきすい、漁業用おもり)も出土した。
 発掘地からは甲冑を出土した永浦古墳も見えて、丘陵を越えると糟屋屯倉ではないかとされる田渕遺跡もある。
鹿部権現遺跡発掘現場写真
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